脳腸相関が科学的に説明できるようになってきています
内藤 裕二
京都府立医科大学附属病院 内視鏡・超音波診療部 部長
消化管とは?
消化管とは口から肛門に至る管状の臓器です。順番に口腔、食道、胃、小腸、大腸、肛門と名前がついています。食べ物は消化管の中を運ばれ、消化、吸収を受け、残ったものは大便となって排出されます。消化管がない生き物はいないと言われています。ところが、消化管は、手足のように自分で自由に動かしたりできませんし、今日はお肉を食べるので食べ物を消化する力を鍛えておこうとしても、よい手段はありません。常に受け身の状態にあるのが消化管です。
これまで消化器内科、特に消化管の疾患を専門とする医師として、食道がん、胃がん、大腸がんなどのがん患者さんや潰瘍性大腸炎、クローン病などの難病患者さんをたくさん治療してきました。早期の胃がんが見つかり、京都府立医科大学附属病院で内視鏡による最新の胃がん切除術を受けた患者さんは1,000例を超えています。クローン病の患者さんに抗腫瘍壊死性因子(TNF)α抗体などのバイオ製剤を投与し、炎症所見が全くなくなり長期にわたって寛解を維持できている症例も増加しています。私は医師になって30年以上になりますが、その間に多くの消化管の病気の内視鏡やX線検査による診断方法や治療方法は、飛躍的に進んできたことを実感しています。
機能性消化管疾患とは?
ところが、こういった患者さん以外に、消化管が原因でいろんな不健康状態になり、病院を受診することもなく、困っておられる方がたくさんいることに気づいています。よくある症状の、胸焼け、胃もたれ、膨満感、便秘、腹痛などで外来を受診され、いろんな検査をしても異常がない人はたくさんおられます。こういった患者さんの症状は、消化管の機能的な異常が原因になっている可能性が高く、機能性消化管疾患といった分類がされるようになってきています。潰瘍やがんがないのに、胃もたれ症状や上腹部痛が長期間にわたって繰り返し出現する患者さんが増加しています。新しい病気として「機能性ディスペプシア」と呼ばれています。アンケート調査などでは5?10%の人が機能性ディスペプシアと診断できるようです。腹痛・腹部不快感と便通の異常(下痢、便秘)を主な症状として、それら消化器症状が長期間持続もしくは悪化・改善を繰り返す過敏性腸症候群の患者さんも1,000万人以上と推定されています。通勤途中、電車や車の中で急におなかが痛くなり、駅のトイレに駆け込む、会議や試験の前になるとどうもおなかの調子が乱れがちになる、こんな症状で困っているものの、市販薬などでなんとか我慢している患者さんが増えています。日本人の中高生の過敏性腸症候群の罹患率も20%程度と報告されています。
脳腸相関とは?
こういった機能性消化管疾患の患者さんを診療していて気づくのですが、おなかの症状だけでなく、眠れない、落ち着かない、頭痛、食欲がない、意欲がない、などの精神神経症状を訴えられる患者さんがたくさんおられます。腸のせいで脳に影響しているのか、脳のせいで腸に影響しているのか難しい悪循環になっているように思えます。「脳腸相関」として医学的には以前からよく知られた現象として有名です。
これまで、便が軟らかくなりやすい下痢型の過敏性腸症候群の患者さんに対しては、「ストレスが原因ですから、生活などのライフスタイルを見直すことが重要です」といった説明をすることが治療の出発だったわけです。ところが、最近の研究によりこのような脳腸相関をある程度科学的に説明することが出来るようになってきました。
過敏性腸症候群の病態においては、腸内フローラの異常、短鎖脂肪酸などの腸内環境の異常により、腸から脳への信号伝達に異常が生じているようです。消化管内腔の粘膜細胞に刺激が加わると、この信号は迷走神経下神経節を介して延髄孤束核へ、また、脊髄後根神経節を介して視床、皮質へ伝えられると考えられています。これが内臓知覚といわれるものです。この内臓知覚には消化管壁内に存在している内在性知覚ニューロンからの信号も関係していると考えられています。特に、この内在性知覚ニューロンの情報伝達にはセロトニン3受容体(5-HT3受容体)が関与していると考えられており、過敏性腸症候群の下痢型の治療薬として5-HT3受容体の拮抗薬が著効することが証明され、臨床応用されています。腸内細菌のなかで神経伝達物資であるγアミノ酸(GABA)を産生する菌があることも確認されています。この菌が少ない子どもは、行動異常、自閉症などになりやすいとされています。自閉症の子どもに対して腸内環境の改善による治療が試みられています。
ストレスホルモンのCRF
ストレスの実験モデルとしてラットの脳室内にCRFを注入するモデルがあります。ストレス下で脳から腸へのシグナルの最初は視床下部の室傍核から分泌される副腎皮質刺激ホルモン放出因子(CRF)です。このCRFは、下垂体前葉の副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)分泌を刺激し、ACTHは副腎皮質からの糖質コルチコイド分泌を刺激し、ストレスに対して適応する様々な生体反応を起こします。いわゆる視床下部-下垂体-副腎軸(HPA軸)といわれるストレス応答です。さらにCRFは下部消化管(結腸)の運動亢進を起すとされ下痢型過敏性腸症候群のモデルとして使用されています。
こういったCRF投与によるストレス負荷を受けた腸管では、平滑筋刺激による運動亢進だけでなく、腸内の細菌叢にも変化が生じるようです。脳内のストレスが腸管に何らかのシグナルを送り、細菌叢に働きかけているようです。ラットの実験ですが、CRFを注入する前にラットに水溶性食物繊維を前もって投与しておくと、この腸管運動亢進が抑制されることも見いだしています。つまり、様々なストレスに対して腸管内からのアプローチが可能になってきているのです。
幸せホルモンのセロトニン
私たちが脳で幸せを感じるもとになる「幸せ物質」のひとつがセロトニンなのです。このセロトニンが脳内で正常に作用すると、ヒトは前向きな気持ちを保ち、幸せを実感し、健康ですごせるとされています。セロトニンが不足すると、怒りやすく、時間が経過してもそれを抑えられなくなり、キレやすくなるようです。実は、このセロトニンは腸管で作られているのです。さらに、このセロトニンの生成に特定の腸内フローラが関与することが明らかになりました。無菌マウスの血中セロトニン濃度が通常環境で飼育されているマウスに比較して低濃度であり、無菌マウスは落ちつきがなくなるようです。このようなマウスを普通の環境に戻したり、乳酸菌などを投与すると、マウスは落ちつきを取りもどします。子どもの脳の発達には腸内細菌の働きが大変重要であるようです。
腸内フローラを決めるのはライフスタイル
腸内細菌にはカラダにとってよい作用をする有用菌(善玉菌)と悪い作用をする悪用菌(悪玉菌)が競り合ってすんでいます。この種類の多くは7歳ぐらいまでの生活で決定されるようですが、その後も腸内細菌の種類、量は多くの因子の影響を受けています。図を見てください。現状で私が考えている重要な因子を並べてみました。
有用菌を増加させるために最も重要なものが食物繊維です。特に水溶性の食物繊維が大事です。大便の80%は水分で、残りの20%は剥がれた腸粘膜細胞、食べ物のカス、腸内フローラです。「バナナ便」と言われるような健康な大便のためにはいろんな対策が必要です。重要なポイントは、大腸で「発酵」といわれる反応を上手く導き出すことで、この発酵反応には、材料としての食物繊維と主役の有用菌の存在が必須なのです。ところが困ったことに、日本人の食物繊維の摂取量は年々減少して、最近の調査によると、成人の1日当たりの食物繊維の摂取量は男女ともに15gほどに低下しています。10代、20代では10g前後と極めて少なくなっています。食物繊維を多く含む食材としては、野菜、芋類、キノコ類、海藻類、豆類などがありますが、洋食の普及と共にこういった野菜の摂取が減少しています。玄米から精白米にする過程で食物繊維は6分の1程度に減少してしまいます。現在の日本人は平均で5?10gの食物繊維不足と考えられます。発酵食品は世界各地で昔から食卓に並んできました。日本でおなじみの納豆、酢、みそ、しょうゆ、日本酒、漬け物、ヨーグルトはすべて発酵食品です。これらの発酵食品の製造には、カビ、酵母、細菌などの微生物、いわゆる発酵菌の働きが必要です。もっとも重要な作用は、このような発酵菌が腸内フローラを有用菌に変化させることと考えられています。ポリフェノールにより腸内細菌の有用菌が増加することも分かってきました。
おわりに
自身の健康における腸内細菌、腸内環境をもう一度考えてみてください。お薬ではなく、明日からでもできるライフスタイルの改善が腸内の環境を劇的に変える可能性があります。病気の予防、健康の維持による健康長寿を目指してください。
(2016年1月)